#74 名刺

2015.02.05

 職場の新人が試用期間を終えて初めての名刺を手にしていた。たいへん喜ばしく、晴れがましく、おめでたい気持ちになった。日本における名刺交換の最低限のマナーなどを偉そうに講釈。講釈しながら「あれ、おれ、これ、いつどこでだれに教わったんだっけか」などと不思議に思う。

 たぶん最初に就職した会社の新入社員研修だ。そう考えるのが合理的だがその研修自体の記憶がない。ただ、その後に現場でフニャフニャのかったるい名刺交換をしてしまい、先輩にがっつり叱られたのは鮮明におぼえている。まあ、マナーを身につけていくなんてのはこういうことなんだろう。何度も名刺を忘れて、その気まずさと後々のめんどくささを噛みしめながら、頑張って持ち物のあちこちに予備の名刺を仕込んだりなんだり悪戦苦闘して、そしてようやく忘れなくなるのである。

 名刺入れは頂戴した名刺の座布団だからみすぼらしいものはよくないよ、みたいなことも、誰から教えてもらったんだったか、またはなにかで読んだんだったか。だから、名刺は財布とかパスケースとかではなくて、きちんと専用の名刺入れにしまっておかなければいけないよ、という。プラスチックのカードケースはダメよと教わったような気がするが、このへんは職場あるいは業界にもよるのかもしれませんね。ファッションのコードと同じで。

 僕は長らく、就職の際に買った紺色の布製の名刺入れを使っていて、マチがあって、いっぱい入るのが気に入っていたんだけれど、名刺の紙に名刺入れの色が移ってしまうという弱点があった。最初の職場では名刺がばんばん減っていくので気になることがなかったのだが、転職してからは名刺交換の機会自体がめっきり減って、名刺が名刺入れの中で漬物のように熟成されるものだから、白い名刺のエッジの部分がすっかり紺色に染まってしまって。ようやく買い換えたのは数年前、神戸に遊びに行ったときにぶらりと入ったcluetoというお店のシンプルな革製の名刺入れを今は愛用している。

 名刺をいただくことがそんなに多くないので、名刺の管理というものにもすっかり悩まなくなった。頂戴した順番に、時系列に、名刺ファイルに入れていくだけである。昔からいろんな整理法が開発され試行錯誤され、デジタルなツールも組み合わさって、困っている人はほんとうに困っているだろうなと思うけれど、今のところ僕は時系列でいけている。

 そもそも、名刺を見て連絡をするという機会もだいぶ減っている。一度でもメールのやりとりがあればメールアドレスは過去の履歴から引っ張ってくるし、電話番号や住所だってメールの署名に入っていることがほとんどだ。そういや初めて作ってもらった名刺にメールアドレスが間違って入っていて、それもハイフンとアンダースコアという微妙な間違いで。かといって新人だからという理由で刷り直してはいただけず。いちいち説明するの面倒だったなあ。

 じゃあ、名刺なんかもう必要ないのかといえばやっぱりまだまだそんなことなくて、名刺交換って、連絡先の交換という以上に「はじめまして」の儀礼としてよくできたものなんじゃないかと思うから。儀礼というと語弊があるかもしれないが、形骸化しているということではなくて、有用な形式として。

 パーティーのファッションは、社交のためのキッカケづくりだと読んだことがある。お洒落な服装、お洒落な靴、腕時計、ネクタイなどなど、そこを「いいですね」と褒めることが会話の口火になるのだそうだ(そんなシチュエーションの経験はないけれど)。ビジネスライクで無機質な場面では名刺がその役割を果たすんじゃないか。そこに書かれている情報、名前はもちろん所属している組織名、部署名、住所、URL、あとはデザインなどなど。

 仕事柄か、お洒落な名刺をいただくことが多い。お洒落なだけでなく、ちょっとギミックがあったり、凝っていたり、下世話な言い方をすれば「金がかかってる」名刺も少なくない。いい紙だったり、逆に粗雑で味のある紙だったり、紙じゃなくて金属だったり、四角形じゃなかったり、活版印刷だったり。広告なんていうチャラい業界にいると……というのは冗談だが、言葉にせよデザインにせよ写真にせよ映像にせよ、名刺がそのまま自身の仕事のプレゼンテーションになる部分があるからかもしれない。ポータブル看板みたいなものである。紺屋の白袴という諺もあるけれど。あるけれど、それでも。

 まあ、名刺の必要なんかないほどに有名人になっちゃう、というのも楽しいかもしれないけれど、それはそれで大変そうですね。

 僕は民間に勤めたことしかなくて名刺は職場から支給されるものだとばかり思っていたのだけれど、聞くところによると公務員は名刺って自腹で作っていらっしゃるらしいじゃないですか。なんでだろうね、おつかれさまです。


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鈴木拓磨 SUZUKI Takuma / suzukishika(鈴木鹿)

コピーライター。札幌の広告制作会社に勤務しています。
1982年早生まれ / 小樽市出身 / 札幌市在住 / 文房具とビールが好物
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