#63 いい眼鏡

2014.11.20

 後頭部をスパーンと叩かれて眼鏡がスポーンと飛んだことがあるか。そんな漫画みたいな、あるいは漫才みたいなことが実際にあるか。経験したことがあるか。ヤスシキヨシエクスペリエンスがあるか。僕はある。

 社会人一年目、目黒の行人坂。東京の慣れない蒸し暑さに汗だくだったというのもあるかもしれない。耳と鼻、眼鏡と顔の接地面が滑りやすくなっていた。つまり飛びやすくなっていたのだ。一緒に歩いていた職場の先輩が会話の流れで僕のことを叱りながら後頭部をスパーンと叩いたその瞬間、僕の眼鏡は行人坂に舞った。叱られたことよりも叩かれた痛みよりもなによりも「こんなことが実際にあるのか!」という驚きと感動が僕を襲ったが、「眼鏡、眼鏡」となるほど視力が悪くないので、落ち着いて眼鏡を拾ってしまったのだった。なんともったいないことか。二十二歳、若かった。

 いわゆるセット眼鏡の安いやつ、五千円のものを何度か買い換えながらかけ続けている。「眼鏡は顔の一部です」という伝説の名キャッチフレーズを引くまでもなく眼鏡は人の印象に影響するものであるわけで、本音をいえば僕だってもうちょっと高価な、シャレオツなやつをかけてみたいという気持ちはある。けれど、どうしても高価な眼鏡をつくる気になれないのは、かつて体験したヤスシキヨシを恐れているからにほかならない。

 それが過剰な不安であることはわかっている。現在の僕のようにもっぱら自宅と職場を往復するだけのデスクワーカーにとって、眼鏡がヤスキヨっちゃうことなんてレアなケースだ。でも、それでも、原理的には耳と鼻に引っかかっているだけという状態の、その眼鏡を高価なものにすることが僕には非常に難しい。eastern youthの吉野みたいにスポーツ用ゴムバンドを装着するなら安心だけど、せっかくいい眼鏡を買ってゴムバンドというのは本末転倒な気もするし、かといってゴムバンドなしではハラハラ緊張しっぱなしで、力んで力んで視力が低下してしまいそうな気がする。すると買い換えなければならない。ああ、また金がかかってしまう!

 初めて僕が眼鏡をつくった高校生の頃は、まだ今のように安い眼鏡がなかったから、眼鏡は「高いもの」だった。けれど、まあいろいろあって今のようなマーケットになってしまった現在、「安く買える」状況があり、それを知ってしまっている現在、敢えて高い眼鏡を選択するというその「敢えて」の理由が、僕の天秤ではまだそれほど重くないのである。視力がそんなに悪くないからレンズにお金をかけなくていいというのも理由の大きなひとつとしてはあるけれど。なまじ安く買えるものだからこそ、高く買うことに躊躇いを禁じ得ない。

 かつて、眼鏡は不可避的に高いものだった。そして、ださいものだった。本当にお洒落な人々の間ではそんなことなかったかもしれないけれど、せいぜい色気づき始めた程度の田舎の高校生にとっては、眼鏡はのび太のものであり、古田のものだったのだ。だから高校に入ってみんなコンタクトレンズになった。僕はコンタクトレンズを使用せずに「授業のときだけ眼鏡」スタイルで高校・大学を過ごして、就職のタイミングで「常にかける」人になった。で、ちょうど同じ頃に安価なセット眼鏡がポピュラーになったのでそれを使い始めたというわけだ。

 今の僕は眼鏡のことを消耗品、とまではいわないがそれに近い存在として考えている。そして、実のところ僕は眼鏡に関するこの状況にまあまあ満足しているのだ。なにも乱暴に扱おうとしているわけではないが、もし壊れてもまたすぐに買えるという安心感は、僕の安寧に大きく寄与していると思うのである。たとえそれがとってもお洒落ではなくたって、まあまあ悪くなければ、構わないではないか。

 けれど、正直迷っている。僕はいい眼鏡を買ったほうがいいのだろうか。いや、いいとか悪いとかはないだろうけど、そろそろヤスキヨの恐怖から自身を解放してあげてもいいのではなかろうか。たとえ奇抜なデザインではなくとも、スタンダードなものであってもそこはかとない気品が漂うような、歴史あるブランドでっせ的な、そういうやつ。フレームだけで当然、数万円するやつ。それを一生大切にするという考え方。

「ある年齢に達したら身につけるものはスタンダードな、よいものを選べ」と以前なにかで読んでとても共感したのだけれど、三十二歳の今、その教えに従うべきなのだろうか。今の十倍の収入が安定して得られる状態になったら迷わないのだけれど、残念ながらその予定はない。ということは、僕にはやっぱりまだ早いんだ。きっとそうだ。せいぜいできるだけスタンダードな型の、セルフレームの眼鏡を選ぶのが関の山だ。五千円の。今と同じやつ。わりと気に入ってるけどな。


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鈴木拓磨 SUZUKI Takuma / suzukishika(鈴木鹿)

コピーライター。札幌の広告制作会社に勤務しています。
1982年早生まれ / 小樽市出身 / 札幌市在住 / 文房具とビールが好物
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