#15 火災報知器

2013.12.19

 頭をよぎったことのない人間などいるのだろうか。

 子どもから大人まで手が届くちょうどよい高さの壁に貼りついた、鏡餅のような正円。目をひく真っ赤なペイントには「強く押す」と書かれている。主語のない、ただの肯定文。ただ、どこかしら命令形のようにも響くのは、日本語のなせるわざだろうか、それとも心の奥底の本人も気づかないくらいの深い闇の中で、ちろちろとその炎が燃えているのか。

 全校生徒の耳をつんざくベルの音。緊張が校内を駆け巡り、すべての行動は中断される。みんな「違うだろ」と思ってはいるが、打ち消しの校内放送が流れてはじめて、すべての行動は再開される。年に一度か二度、いや、印象としてはもっと多かったかもしれない。

 僕は「俺が押した」という児童を一人も知らない。僕の通っていた小学校は1学年100名ちょい、全校生徒700名程度だったけど、それでもどの学年にだって兄弟姉妹はいるわけで、何年生の誰それってやつが押した、ということくらいの噂は駆け巡ったっていいはずだし、当然、同級生である可能性だって六分の一だ。あと、僕は無意識に「俺」と書いたけれど、今の今までずっとそう思ってたけど、女子の可能性だって、全然ある。

 それとも「ばれていた」のだろうか。僕ら児童が知らされていないだけで、職員室は知っていた、ということは考えられないだろうか。ただの一人からも目撃されずに押せるやつがいたか。中学生ならまだしも小学生が、なんのへまもせずにうまくやれるか。仮に目撃されずにいられたとして、それは逆にいえば、浮いていたともいえるわけで「あのとき、いなかったやつは誰だ?」という問いを重ねるだけで、そう難しくなく当事者までたどり着けるような気がするのだが。小学校教諭になった同級生もいるから、今度きいてみようかな。でも教えてくれないかもしれないな。

 幸いにして僕は一度も本番使用に遭遇したことはないのだが、中学に上がっても、高校に通い始めても、回数こそ少なくなれどベルは鳴った。当時もわからなかったけれど、後年「実はあのとき押したの、俺なんだよね〜」と聞いたこともない。自分の母校出身者も、そうではない今の職場の人や友達からも一人もいちども、そのような経験談を披露されたことがないのだ。大人になった今にしてみれば、良心の呵責に苦しむほど重たい罪であるようには思えないのに。飲みの席で、ひょっこり出てきてもいいようなエピソードなのに。

 単に「僕が」聞いたことないというだけなのかもしれない。僕は見るからに柔軟性に乏しく融通の利かない、品行方正でいけ好かない子どもだったから、誰も僕には言わないようにしていたのかもしれない。だったらだったでいいけれど、それで決着して不貞寝するのも寂しいので、仮説。

 火災報知器のボタンを押すというのは、たとえばどこそこの高さから飛び降りたとか、誰某先生を殴ったとか、そういう「誰かに自慢したくなる武勇伝」と根本から異なる、非常に個人的な営みなのではないだろうか。

 聞き手の立場からすれば、無責任にも、そこそこ面白い話になるような気がするのだ。なんせ、押してはいけないあのボタンを押したわけだから。それなのに語られないという事実。勇者とまではいわないが、どうして押したのか理由くらいはぜひ聞きたいものだ。どうして。「どうして」?

 どうして押すというのだろう。そこに、合理的な理由などあるのだろうか。想像がつかない。妄想が追いつかない。ひょっとして、その動機を押した本人もうまく説明できないのではないか。語らないのではなく、語れないのだ。行為のインパクトの大きさに比べて話が膨らまないのだ。理由は「押したい」以上でも以下でもなく、押す人と押さなかった人の違いは、ただ、その気持ちに素直になったか否かしかない、というような。

 だったら、じゃあ、なぜ、大部分の人たちと違って、彼または彼女は、己の欲望に素直になれたのか。きっとそれは、意志の力でもなんでもない。事故だ。焚き火や、理科室のアルコールランプ。めらめらと燃える炎が人の心を艶めかしくとろけさせてしまうことがあるように、脳のずうっと奥の方の、原始的な部位を刺激するようなフックが、あの真っ赤なボタンにはあるのだ。偽りのエマージェンシーを発するというその行為が内包する、危うい快楽。

 先日、家族と温泉に行った。年季の入ったホテルの客室で浴衣に着替え、連れだって風呂に向かおうと古びた廊下に出ると、不自然なくらい大きく無骨な赤があった。僕はその「一つ目」と目が合い、ひとり立ち止まってしまった。「強く押す」。主語のない、ただの肯定文。ただ、どこかしら命令形のようにも響くのは。

 みんな押すなよ。絶対に押すなよ。


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鈴木拓磨 SUZUKI Takuma / suzukishika(鈴木鹿)

コピーライター。札幌の広告制作会社に勤務しています。
1982年早生まれ / 小樽市出身 / 札幌市在住 / 文房具とビールが好物
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